2020年05月31日

(承前)

英語は話せないけど日本語なら少しわかるという外国人のほうが日本にはずっとたくさんいるんだから、そういう人に理解してもらえる日本語を使ってもっと外国人とコミュニケーションとろう、というのが趣旨だろうと理解しているが、細かい点ではいろいろ突っ込みどころ多いと思うんだけど。
じゃあ私が英語圏の英語話す人に対して、もっと簡単な文法と単語だけ使った外国人にわかりやすい英語を広めて、使って欲しいと思うか?っていうと、考えたこともない。ゆっくり話してくれとは思うが(そしてそれが出来ないようだが)、単語と単語がくっついて音が変化したり消えたりするとわかりにくいからそれ止めて1語ずつ区切って、すべての音を発音して、というふうにしたらそれはもはや普通の範囲内の英語ではないのでは?(英語母語話者の気持ちまではわからんけど。)
あと、そもそも日本人は義務教育で長年英語を勉強させられるのだから、多少の英語は話せるはずで、少し日本語が話せる人に対しても補助的に英語を足していけばいいのに、完全排除しちゃってる例もあり。別に誰も完璧な英語なんか求めないでしょう、少なくとも日本国内で。
同じやさしい日本語にもいろんな考え方の人がいるようで、経済効果をゴールにするのはどうなん?と個人的には思う。それよりは、少しボケてしまった老人にわかりやすく話す必要があるのと同レベルで考えている人の説明のほうが納得できる。
同じく、小中学校の授業でわかりやすい日本語を話せと主張している人もいるが、理由が日本語に不慣れな子どものため、というのもどうかなと。自然な言葉遣いとわかりにくい説明がごっちゃになってないか?
敬語もねえ、難しいかもしれないけど、日本人はここ数十年のあいだにどんどん敬語が好きになってきてるように見えるんだけど。
皆良かれと思ってがんばっているが、努力の方向性が微妙にずれているような。ま、今のところ大した影響力はなさそうだし影響してきたら抵抗すればいいだけの話だからいいんだけど。現に自分も、今の職場からああやれこうやれと言われてもさりげなく違うことやったりしている。(そんなことはささいなことだけど、人が話す言葉をコントロールしようという活動ってよく考えると恐ろしくないか?)ということで結論としては、大きなことから小さなことまで唯一絶対の正解がないことは多い、というところに戻ってしまいました。

以上、脳内メモ。明日の準備しなきゃ。
posted by toto at 12:19| 京都 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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